Note

美意識の革命(その3)

その1、その2はこちら

前回までのレポートで、「変化を慈しむ心」についてお話ししてきました。

その中でも今回は「闇」というテーマについてお話ししたいと思います。

「明るさ」と「暗さ」。ないしは、「昼」と「夜」。

この2つも、人間が避けることのできない環境変化の一つです。

明るい環境や昼は、どちらかというポジティブなイメージで語られることが多く、一方で夜や闇は、お化けが出そうだったり、怖かったり、ネガティブなイメージで語られることが多い。要するに、人間にとって不便な環境なわけです。

そんな「闇」に対して、人間はどのように立ち向かってきたか。

もちろん、「闇」を明るく照らす、世界から暗い時間や環境を極力減らそうとしてきたわけですね。

夜は暗いし怖いし、森の中で暮らしていた頃は命の危険も高まります。

そんな危険を少しでも減らそうと、火を発明し、蝋燭を発明し、電気を発明し、様々な文明を生み出してきました。

それはもちろん日本においても変わらないのですが、日本においては「闇」というネガティブなものに対して、別のアプローチもなされます。

それは、「闇に美を見出す」というアプローチですね。

前項にてお伝えした、「環境自体を変えるのではなく、環境に対する自身の捉え方を変えるアプローチ」です。

たとえば、源氏物語。

源氏物語がなんであんなに長いかって、夜の描写が多いんですね。

そしてそこでは、現代では計り知れない様々な表現が登場します。

衣ずれの音

香を焚きしめた文

髪の手触りに関する長文

などなど。

要するに、「見えない」ことを逆手に取って、聴覚情報、嗅覚情報、触覚情報を頼りに、相手の身分や顔立ちを想像の世界で楽しんでいるわけですね。

全てのものが「見えてしまう」現代の感覚に比べたら、なんと贅沢で優美なことか。

源氏物語を読むたびに(私は田辺聖子さん著の「新源氏物語」が好きですが)、暗い闇の中でここまで美や幸福を見出せる平安貴族の感性に惚れ惚れするのであります。

繰り返しになりますが、「見えなくて怖いから、明るく照らそう」ではなく、「見えない不便さを逆手に取って、想像の空間を楽しもう」という発想の転換が起きているわけで、ここに、日本文化の本質があるんじゃないかと思うんですね。

私はそれを「想像力の文化」と呼んでいます。

前項に書いた内容から整理すると、

①災害大国日本では、「環境(自然)そのものを変えて、自分たちの生きやすい空間を作ってしまおう」という発想が育たなかった。

②それでも世界を生き抜くために、「与えられた環境の中でいかに美を見出すか」という心の捉え方(柔軟性)が発達した。

③人間にとって不便な環境において、それらを美に変換するための装置が生まれた。(夏の風鈴、闇における衣擦れ、香など)

それらは、視覚(=現実世界)以外の感覚に訴えかけ、人間を別の想像空間へと誘う機能を果たした。

④結果、現代の感覚では理解し得ない独特な日本文化が生まれた。

しかしそれらはすべて、人間にとって不便な(不安定な)環境を生き抜くための「心の変容」の集結であり、与えられた環境下で人間を幸せへと導くための装置である。

というのが、私が思っている日本文化の本質であります。

これを私は勝手ながら「想像力の文化」とか「諦めの美徳」と名付けてますが、この考え方って、現代においてとても重要になると思うんですよね。

「環境自体を変えてしまおう」というのは、要するに環境問題そのものに直結しかねないリスクがあるわけで、その結果、昨今の災害の多発や温暖化問題なんかが起こっているんじゃないか、と思っています。(もちろん、それ以外にも色々な理由があると思いますが)

そんな時代だからこそ、今を生きる我々が「与えられた世界でどう生きるか」を考えること。そしてそれが「我慢」ではなく、むしろそこに、積極的に不便な環境に身を投じたくなるような「美」が存在していること。

これが、これからの時代においてとても重要なんじゃないかと思っています。

「節電のために電気を消す(=我慢)」ではなく、「暗闇が美しいから、積極的に電気を消す」という社会を作りたい、ということですね。

我慢は長続きしないけど、「生活に美を感じたい、美を取り入れたい」という人間の感性はなくなることはありません。

大袈裟なことを言ってしまえば、日本文化が世界を救う可能性を秘めている、とも思うわけですね。

さて、「闇」というキーワードからだいぶ遠いところまで飛んできてしまいました。 次回をもう一つ別のキーワードを取り上げた上で、「変化を慈しむ心」の最終稿へと進んでいきたいと思います。

▼その4はこちら