Note

美意識の革命(その1)

みなさまこんにちは。

代表の葛西です。

突然ですが、弊社の社長車(私の車)、冷房が壊れてまして。

だいぶ前から治さなきゃな〜と思いつつ、まあいいか、とそのままにしておいたんですが、先日久々に、そんな冷房の効かない車で日中に運転したんですよ。

そりゃもう暑いのなんのって、運転しながら謎に汗びっしょりになるわけですが、意外と気づきもありまして。

窓開けて運転してると、やっぱり風って気持ちいいな、とか。

ちょっと木が多い小道走ると、心なしか冷たい空気が入ってきて、やっぱり緑って涼しいんだ、とか。

そんなことを感じたわけですね。

渋滞さえしなければ、意外と冷房無しでも運転中生きていけることがわかりました。

(渋滞中、特にトンネル内は地獄です。笑)

さて、そんな時にふと思ったのですが、「四季を慈しむ心ってなんなんだろう」、と。

よくよく考えると、「四季を慈しむ心」って、とっても不思議な感情だと思うんです。

人間って基本的に、「不安定」を嫌う生き物ですよね。

暑いとか寒いとか暗いとか。

一年中快適な気温で過ごしたいから冷暖房が生まれたし、

一日中明るい環境に身を置きたいから灯りが生まれたわけです。

これは自然環境に対する行為に限らず、例えば、「安定した会社に入りなさい」とか、「公務員になりなさい」とか、私も小さいころ親からよく言われたもので、人間というのは恐らく、この不安定な世の中で(いや、不安定だからこそ)、生涯を通じて安定、もしくは永遠なるものを本能的に求める生き物なんでしょう。

不安定さを嫌う、というか、「変化を嫌う」といった方が近いかもしれませんね。

一方で、当たり前ですが地球は動いているし、常に「変化」しているわけで、この絶えず変化する環境の中で、いかに「安定」、もしくは「永遠」を手に入れるか、みたいなものが、文明発展の底流にある本能のように感じます。

きっとAIとかロボットに憧れを持つのも、そこに「安定性」、「永遠性」が感じられるからなのでないでしょうか。

さて、そんなことに思いを巡らせた時に、改めて、「四季の変化を慈しむ心」とはなんじゃい、と。

安定を望む本能とは真逆の行為で、よくよく考えると摩訶不思議なわけであります。

本来であれば一年を通して暑いも寒いもなく同じ気温でいた方がよっぽど過ごしやすいわけで、四季なんかない方が理想的なわけです。

それなのに、その変化を慈しむ心が我々人間にはある、と。

これは一体どういうことなんでしょうか。

私の仮説ですが、この「変化を慈しむ心」というのが、テクノロジーが発展する以前の人類が生み出した究極の知恵だったと思うんですよね。

暑いのも寒いのも辛いし、夜は暗くて怖いし、雨が降ったら濡れて嫌だし…でも、そんなこと言っても仕方ないから、そんな変化を「美しい」と思うようにしよう、と。

そうすれば、幾分辛くないんじゃないか、と。

そんな風にしてできあがった感性なんじゃないか、と思うわけであります。

そこには大前提として、「あれこれ言っても自然環境は変えられない」という、自然に対する「諦め(もしくは畏怖)」があるわけです。

一方で「自然環境そのものを変えてしまおう」という前提にたって進んできたのが「文明」でして、ここに、「文化」と「文明」の大きな違いがあるわけですね。

私の定義では、「文化」とは、この不安定な世界(古典的にいうと「憂き世」)に対して、心の内の捉え方を変えることで幸福感を得ようとするアプローチ、

「文明」とは、不安定な世界そのものに手を加えて、安定を手に入れようとするアプローチ、としています。

さて、ご存知の通り、かれこれ数百年にわたり、人類は後者(文明)によって安定を手に入れようとしてきたわけでありますが、その結果、環境問題をはじめとした様々な社会問題に直面しています。

結局のところ、「地球環境そのものを人類のために変えてしまおう」なんてのは、無理があったわけですね。

そんな問題に直面しているいま、必要なことは、前者のような「文化的アプローチ」です。

要するに、「与えられた環境の中で、自身の捉え方を変えることによって幸福感を得る」というアプローチですね。外部環境は変えられない、という謙虚さを持ちましょう、と言い換えても良いかもしれません。

そして日本が育んできた感性は、この能力が非常に長けているのではないか、と私は考えています。

この点が、弊社が「いのち」と「ぶんか」を社名に掲げる大きなポイントになります。

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